浮世絵で見る江戸・神田界隈

第4回 筋違内八ツ小路

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:神田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

万世橋に歴史あり

蔵三さん、ずいぶん久しぶりじゃないですか。「連載って宣言しながら3回でおしまいかよ」って読者の皆様からクレームが殺到してたんですよ。

うるさいなぁ。悪かったよ。こちとら持病の糖尿病が悪化するわ、前立腺が悪くなって入院するわ、五十肩で腕は上がらなくなるわって、病気のアパートじゃなくてデパート状態だったんだよ。

みんな運動不足とかお酒の飲み過ぎとか、甘いものの食べ過ぎとか、蔵三さんの不摂生のせいでしょ。

あ〜そうだそうだ。みんな自分のせいだよ。でもなぁ、酒も飲まず甘いものも食べずに人生に何の楽しみがあるんだ? こないだも秋葉原の「肉の万世」本店に行ってジャンボハンバーグと大盛りご飯を食べてきたよ。美味かったなぁ〜。

「肉の万世」って…。確かに美味しいかもしれませんけど、そんな堕落した生活を送りながら連載を休んでたなんて、どうやって読者に弁解するんですか?

弁解なんかしませんよ。その「肉の万世」本店の3階ぐらいから見た景色が、今回の浮世絵のテーマなんだから。広重の名所江戸百景「筋違内八ツ小路」(写真左)だ。この絵で言うと一番手前あたり、絵には描かれていないけど筋違御門の西側辺りが今の「肉の万世」本社ビルがあるところ。さらに筋違御門があった辺りが、かつて万世橋駅や交通博物館があった場所。今は「マーチエキュート神田万世橋」として生まれ変わったけどね。

あっ、うまく話を誤魔化したわね。でも、もしかして万世橋の近くにあるから「肉の万世」って言うの?

その通り。位置関係がよくわかるように地図を用意したよ。多少位置関係は変わっているけど、前回取り上げた昌平橋と今の万世橋の中間あたりにあったのが筋違(すじかい)橋だ。で、前回の「昌平橋 聖堂 神田川」での広重の視点が①。③が今回の「筋違内八ツ小路」での視点。



じゃあ、②は誰の視点?



それはこの写真を見てくれ。明治初期に撮影された貴重な昌平橋の写真だ。



このカメラの視点かぁ。でも広重の絵って幕末に描かれたんでしょ。じゃあ、明治初期ってことは、絵とほぼ変わっていないってことよね。

そう。写真を見ると土手の高さが相当デフォルメされていることがわかるけど、左側に木の柵と門があるだろ。これが「筋違内八ツ小路」ではちょうど中央より少し上の辺りに描かれている。その手前にあるのが辻番所だ。

つまり、昌平橋を南側から渡って写真の右手にある門を過ぎると、ここに描かれた場所に出るっていうことね。ってことは、この絵には湯島聖堂もあるはずよね。どこだかよくわかんないけど。

左手の林が聖堂だと考えていいんじゃないかな。木々の間が赤いのは夕焼け。つまり、春の夕暮れと広場の雑踏を描いたというわけだ。

手前に行列みたいのが横切っているわよね。


乗物が女性用だし、従者が槍ではなく薙刀を持っているから、たぶん大名の奥方かなんかだろうね。この行列も相当デフォルメされて小さく描かれてるけど、広重が面積の広さを強調したかったことはわかるだろ。そもそも、何で川岸にこんなだだっ広い場所があるかというと、明暦3年の大火、江戸の大半を焼きつくしたいわゆる振袖火事を契機に延焼をストップさせる広場をいくつか設けた。代表的なのが上野広小路や両国広小路だ。そしてそのひとつがこの「八ツ小路」。

上野広小路って今でも地名として残ってるわよね。


うん。広小路は上野も両国も本来の目的を逸脱して江戸を代表する繁華街になっていくんだけど、この八ツ小路近辺も交通の要所だから以前から青物市場があって、広小路になってからは、さまざまな方面から野菜が終結するやっちゃ場になるんだ。江戸末期には青物5ケ町といって、多町、須田町、佐柄木町、雉子町、連雀町合わせて200件あまりの問屋があったらしい。

へぇ〜。八ツ小路って変わった名前だけど何か意味があるの?


「八ツ小路」という名前の由来は、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の“八つの口”つまり八方向へ行ける中継地点という意味だ。筋違橋というのは鉄筋なんかの筋交い同様、道が交差する地域だからという説もあれば、斜めに掛けられた橋だからという説もある。でも、重要なのは橋よりも筋違御門の方だ。これは別名神田見附とも言って、江戸城三十六見附のひとつ。

赤坂見附なんかと一緒?



その通り。交通の要所に設けられた見張り所のようなものだな。外敵の侵入を防ぐ城門ですよ。でも、この絵が描かれた頃には夜間でも通行量が多かったから開けっ放しにしていて、ほぼ有名無実化していたけどね。それでもこの地は将軍が上野の寛永寺に詣でる際の御成道だからね。さすがにその際には一般人の通行を禁じたらしい。筋違御門の威容はプロシア使節団の随行者が描いたリアルな絵(上)と、明治初期の写真(下)で確認できる。




ずいぶん立派な門だったのね。橋もアーチ型でなかなか素敵じゃない。


本来、将軍参詣のためにだけ作られたような橋だったから珍しく擬宝珠がついてる。でも、江戸幕府消滅とともに、明治5年に御門もろとも取り壊された。で、その後に架け替えられた石橋が最初の万世橋。その後、洪水や地震で架け替えが繰り返され、今の万世橋ができたのは昭和5年。かつてこの近くには国鉄の万世橋駅もあった。

ははぁ〜。それがさっき言ってた今の「マーチエキュート神田万世橋」ね。行こう、行こうと思ってまだ行ってないけど。

駅の開業は明治45年。当初は私鉄である甲武鉄道の昌平橋駅があったんだけど、明治39年に鉄道院が国有化して万世橋駅ができたから廃止になった。初代駅舎は東京駅と同じ辰野金吾の設計による赤煉瓦造りだったから、再現された今の東京駅とよく似ている。彩色写真(下)が残っているから見てみるといいよ。



確かに豪華な駅ね。でも、この駅も残ってないわよね。


関東大震災で焼失した。ただし、すでに東京駅が開業していたから中央線の起点駅としての役割は終わっていたんだ。だから二代目の駅舎はこんな感じ(下)で、ずいぶん貧相になってしまった。



なんか駅前に大きな銅像が建ってるわね。


「杉野はいずこ」で有名な日露戦争の“軍神”廣瀬武夫と杉野孫七の銅像だよ。残念なことに太平洋戦争後にGHQが撤去しちゃった。駅も昭和に入って役目を終え、交通博物館とその事務所になり、さらに今年2013年に「マーチエキュート神田万世橋」としてその面影を残したままリニューアルしたわけ。
なるほどねぇ〜。蔵三さん、病み上がりにしてはなかなかいい話だったわね。ところで、次回のテーマは?

それは広重の絵の中にすでに描かれているよ。絵の左上に小高い丘と社(やしろ)が見えるだろ。あれが神田明神だ
<次回へ続く>

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