浮世絵で見る江戸・神田界隈

第3回 昌平橋 聖堂 神田川〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:神田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

権力者が変われば名前も変わる?

今回の絵のタイトルは昌平橋ですよね。その割には欄干しか描いてないけど…。昌平橋って今でもあるけど、場所は同じところ?

ほぼ同じところだね。この橋の歴史は結構古いんだよ。下を流れる神田川は、元々流れていた平川の流れを変え、本郷大地を切り通してできた人口河川だという話は前にしたよね。この工事は主に伊達藩が受け持ったから別名「仙台堀」なんて呼ばれていたんだ。ちなみに深川にある「仙台堀」は仙台藩の下屋敷があったからついた名で、ちょっと意味が違う。

それじゃあ、神田川ができてから架けられたってことね。


そう。寛永年間(1624年〜1645年)という説が有力だ。一部で室町時代からここに橋があったという説があるけど、その頃にこの地に川があったとはちょっと考えにくい。当時、橋の南西に一口稲荷(いもあらいいなり)社があったから当初は「一口(芋洗い)橋」という名前だった。

あれ、一口って書いて“いもあらい”って呼ぶの? 不思議ね。


由来としては、太田道灌の娘が天然痘を患った時に京都の一口稲荷神社に回復を祈願したら治癒したということで、旧江戸城内に勧請したのが始まり。その後家康が江戸城改築の際に城外の鬼門にあたる場所に移転し、そこに橋が架けられたというわけ。

その神社は今は残っていないの?



太田姫稲荷神社という名前になって度々移転した後、今は駿河台1丁目にある。但し、この太田姫という名前は「太田道灌の姫」のことだと誤解されやすいんだけど、実は「太田姫の命(みこと)」という神様のことらしい。見た目もお姫様じゃなくておじいちゃんだとか…。

あはは。何だかややこしいのね。



誤解と言えば、太田道灌の勧請した神社が名前の由来だということで、室町時代にできた橋だと誤解されたんじゃないかな。その後「昌平橋」という名前になったのは、この橋の北側に5代将軍綱吉が孔子を祀る湯島聖堂を建てた時に、孔子の生まれ故郷である「昌平郷」にちなんで、一帯を「昌平坂」と命名したからなんだ。

孔子を祀るところを孔子廟って言うんでしょ。でも、どうして綱吉さんはいきなり湯島に孔子廟なんか建てようと思ったのかな。神社やお寺だったらわかるけど…。

綱吉は学問好きでね。特に孔子の儒学がお気に入りだった。だから、もともとは儒学者の林羅山が上野の屋敷内に設けていた孔子廟を、湯島に移転させて、併せて学生が学ぶための講堂や学生寮もつくったわけ。これが後の昌平坂学問所、通称「昌平黌(しょうへいこう)」のルーツだ。

昌平坂学問所って、江戸時代の大学みたいなもの?


うん。もともとは幕府の保護があったにせよ林家の私塾だったから、小規模な私立大学みたいなものだった。一時は実学を重んじる8代将軍吉宗の意向で廃絶の危機にあったんだけど、その後儒学のうち、農業と上下関係を重視した朱子学が幕府の学問としてふさわしいということになって、松平定信の「寛政の改革」の一環として、学問所での朱子学以外の講義を禁じることになった。いわゆる「寛政異学の禁」だな。

勉強する内容について幕府が規制したっていうことね。


そうなると、いつまでも林家の私塾ではまずかろうということになって、「学問所」を林家から切り離して幕府の直轄にした。これが昌平坂学問所の始まりだ。この時に聖堂も改築して敷地や施設も大規模にしたから、私大から有名国立大になったようなものだね。

じゃあ、林家はもう学問所とは関係なくなっちゃったの?


いや、学問所の維持運営は代々林家の当主が担うことになっていた。この当主の呼称が林大学頭(だいがくのかみ)だ。世間ではあまり知られていないけど、幕末になって、この大学頭の11代目が意外な所で活躍するんだ。

幕末って言えばオランダの学問なんかが主流だったんでしょ。朱子学の先生が活躍する機会があったの?

あの黒船のペリーと渡り合って日米和親条約を結んだ日本側の代表が11代当主、林復斎なんだ。ちょっと意外だろ。その辺の経緯は「向島今昔」「 平井橋今昔」を読んでもらうとして、昌平黌は明治4年に閉鎖されるまで日本最高のエリート養成学校だったわけ。

そう言えば、今湯島聖堂がある一帯は東京医科歯科大のキャンパスになってるわよね。

一時は東京師範学校や文部省、国立博物館なんかがあった時期もある。「お茶の水女子大」という校名も、前身である東京女子師範学校がこの地にあった名残りなんだ。

確かに今でも神田は学生の街だもんね。ルーツはそこにあったっていうことか。

余談だけど、一口に「昌平坂」と言っても江戸時代には3つあったんだ。ひとつは聖堂の南を神田川に沿って昌平橋へ下る坂。これが別名相生坂。この絵にも描かれているだろ。ふたつめは、湯島聖堂が建立された時に、東側に新たにできた坂。三つ目は、宝永年間(1704〜1711)にさらに東側に新たに開かれた急な坂で、よくコロコロと団子のように転ぶから通称団子坂。この坂を降りると相生坂に合流する。

そういえば、今でも「相生坂」とか「団子坂」って呼ぶお年寄りもいるわね。

逆に言えば、橋を渡ったところから坂が枝分かれして2つに延びるから「相生坂」になったということかな。対岸の淡路坂と橋で繋がっているからだという説もあるけどね。だから昌平橋という名前になる以前に、一時「相生橋」と呼ばれていたという江戸時代の記述もある。そんなわけで、明治になって学問所がなくなると、古い名前が復活して、昌平橋は「相生橋」になった。
それがまた昌平橋に戻ったっていうこと?


明治6年(1873)に一度洪水で橋が落ちるんだけど、その後架け替えられた時に昌平橋の名が復活するんだ。詳しい理由はわからないけどね。ただ、明治政府にしてみれば、当初、幕府の匂いを消したかったというのは何となくわかるけど。
<続きは次回。12月中旬に掲載します>

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