浮世絵で見る江戸・神田界隈

第1回 水道橋 駿河臺〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:神田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

江戸の水道は凄かった?

こんにちは、大江戸さん。文化部の神田です。今度都内版で「浮世絵で見る江戸・神田界隈」っていう企画を始めるんですけど「そういう企画なら、まずは大江戸さんに聞いてこい」ってウチのデスクが言うもんですから、整理部の方へお邪魔したっていうワケです。それにしても、大江戸さんって変わった名前ですね。なんかの芸人みたい。

それは江戸屋猫八のことか?失礼なヤツだな。キミだって売れない演歌歌手みたいな名前じゃないか。ワタシはこう見えても忙しいんだよ。キミと付き合ってる時間なんかないの。さぁ、帰った、帰った。

まぁ、そう言わないで。タダでお話を聞こうなんて思ってませんよ。デスクが「蔵三さんの好みだから探してこい」って言われて、これを苦労して見つけてきたんですよ。

おおっ、これは「獺祭(だっさい)」の大吟醸じゃないの!蔵元は山口の旭酒造だ。ここの酒は濁り酒も旨いんだ。いやぁ、これはなかなか手に入らないんだよ。ニホンカワウソ(獺) もいなくなっちゃったし。キミも生意気なだけかと思ったら、結構いいとこあるじゃないの。ところで、何を聞きたいんだっけ?

「浮世絵で見る江戸・神田界隈」っていうテーマです。江戸の中心部にあった神田界隈を描いた浮世絵を見ながら、江戸時代の東京を振り返ろうっていう…。

浮世絵ねぇ。江戸を描いた浮世絵と言えば広重か北斎か、通好みなら国芳か‥。ちょうどいただいた北斎、じゃなくて白菜漬けがあるから、こいつを肴にまずは一杯やってからだな。大吟醸はさぁ、常温じゃ持たないから、開けたら飲みきらないとね。

まだ仕事前じゃないですか。今から飲んじゃって大丈夫かなぁ…。

大丈夫に決まってんだろ。どれどれ、浮世絵を探すかぁ。江戸ならやっぱり広重の「江戸百(名所江戸百景)」だろうな。その中で神田界隈って言えばこれだ。「水道橋 駿河臺」(写真左)ね。

うわっ、鯉のぼりのどアップ。っていうことは、季節は5月なのね。でも、江戸時代の鯉のぼりって、こんなに地味だったの?

観賞用の錦鯉が全国に普及したのは大正時代からで、江戸時代の鯉といえば色がついてない普通の鯉だ。それでも江戸産の鯉は紫がかっていて上方なんかでは珍重されていたんだ。

ふ〜ん。ところで、題名が「水道橋 駿河臺」ってことは、下に流れてるのは神田川で、橋は水道橋ってこと?

その通り。神田川の北側から対岸の駿河台を見下ろしているという、広重得意の、俯瞰の構図だな。

以前から疑問だったんですけど、水道橋ってどうして水道橋って言うの?

江戸っていうのは東側と南側が広大な埋め立て地だから、井戸を掘っても真水が出ない。だからどっかから水を引いてくる必要があった。家康が江戸の都市計画を立てる際に、真っ先に指示したのが上水道の整備なんだ。その端緒が小石川上水で、これが発展して神田上水になる。意外に思うかもしれないけど、江戸の初期にはすでに水道網が整備されていたんだ。

ってことは、川の上にその水道を通すための橋があったっていうこと?

そう。この絵を見てごらん。寛永19年(1642)頃に描かれた「江戸図屏風」の一部なんだけど、ここに人が通るための橋と並行して“水道橋”が描かれているだろ。

ホントだ! 江戸ってかなり近代的だったのね。でもちょっと疑問。下に神田川が流れているのに、どうしてそこから水を取って使わないの?

一つ目の理由は、川の水を飲料用に浄化する技術がなかったから。江戸時代の河川は今と違ってきれいな水が流れていたから、そのまま飲料水にもできたけど、どうしても下流に行くほど生活排水や不純物が混入する。だからなるべく源流に近い状態でそのまま引いてくるのが望ましかった。もうひとつは、駿河台という名の通り、川の対岸が台地で高低差があるから。だからなるべく高さを変えずに水を流す必要があった。絵を見てもわかるように、橋の前後は暗渠、つまり地下水道になっていて、石樋が水道管として使われていたんだ。

ますます感心。江戸時代の技術って凄いわ。

キミが指摘した通り、そもそも神田川自体、生活用水確保のために平川という天然河川の流れを付け替えたものなんだ。江戸はもともと内陸の台地と海岸線の湿地帯で形成された土地だった。それを都市化するために台地を削って湿地帯を埋め立て、広大な平地に整備していったわけ。神田川はその過程で生まれたんだ。

じゃあ、神田川って江戸時代の初期ににできた人口河川だったのね。

神田川付け替え工事の際に、本郷台地の南側を開削して水を通したから、台地が分断されて南端の高台、以前は神田山と呼ばれていた部分が孤立した。で、この神田山も埋め立てのために削られたから台地になった。そこに、主君・家康を慕う家臣達が駿府から引っ越して住み始めたから「駿河台」という地名になったわけ。

地名って、必ず由来があるのね。じゃあ、この絵に描かれている屋根は武家屋敷の屋根っていうことか。

そう。ここに“水道橋”を作ったもうひとつの理由は、上水道整備はまず武家屋敷を優先したからなんだ。この橋を流れる水はまず現在の小石川後楽園、当時の水戸藩江戸上屋敷を通って、水道橋を通ったあと、駿河台の武家屋敷を通り、最終的に町人の住む地域に流れる。
あれっ? じゃあ、時代劇の長屋に出てくる井戸って、地下水じゃないの?

そう。実はあれは地下水道から取水した井戸なんだ。井戸は地下の石樋とつながっていて、貯水槽になってるわけ。江戸時代は封建社会だからね。水も身分に合わせて「高い方から低い方へ」流れ、順番に使われたというわけさ。
<続きは次回。9月下旬に掲載します>

ページトップへ戻る